「林檎の色」の物語
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りんごの収穫
葉とらずりんごは、ギリギリまで樹で熟します。この日(昨年11月13日)の翌々日には降雪の予報が・・・・果実が凍結する前に、収穫を急ぎます。 |
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葉とらずの森
園地によって葉の繁り具合はさまざまですが、これは「葉とらずの森」を象徴するワンカット。りんごの色のりも、ほんのりやわらかです。 |
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集荷場での選別
岩木山麓の各園地から出荷されたりんごは、(株)農業支援の集荷場で選別、貯蔵します。これは、最初の選別作業です。 |
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2台のセンサーでも
糖度やりんごの果皮・果肉の状況は、2台のセンサー&コンピュータでもチェック。写真中央の小さな入り口は、糖度センサーです。 |
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もとは病気予防だった袋がけ作業を、陸奥(むつ)という「青い林檎」にためした生産者がいた。すると、陸奥は真っ赤な林檎に変身した・・・・
昭和30年代の後半から凋落をはじめた林檎生産。昭和43年には、莫大な数が山野に投棄された事もあったという。その真っ赤な陸奥は、生産者たちにとって救世主となった。都会でもてはやされ、高額で取り引きされたからだ。
林檎には赤・黄・緑の3色がそなわり、太陽と季節の温度変化で色が変わるといわれる。夏にたっぷり太陽を浴びれば黄や緑が強くなり、秋の日ざしと低温で赤くなる。陸奥の場合は、実が小さな夏の時期に袋がけで太陽をさえぎり、緑や黄の発色を防いでいた。
見た目で売れることを知った生産者たちは、競って色と形のよさに没頭した。それは、ふじや王林など他の品種にもひろがった。味や香りは置き去りにされた。
「これではいけない・・・・」と危惧する声があがりはじめたのは昭和40年代の後半。青森県りんご試験場を中心に「青い陸奥」づくりへの原点回帰がはじまった。しかし市場の反応は厳しく、値段は相場の一割にも届かない。それでも、弘前市の青果商・大鰐青果の片山氏が販路拡大に名乗りをあげたことで光が見えた。灘神戸生協(現・コープこうべ)が産直に取り組んだことで、大きなはずみがついた。当時の生協組合員は、その味の良さと低価格に驚いた。
この流れはやがて日本中に波及した。後に定着したサンむつ、サンふじなどの名も「サン=無袋」に由来している。今回、誌面にとりあげた国光とデリシャスの交配種「サンふじ」は、今や最も人気のある林檎のひとつへと成長した。
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けれども、人はやっぱり真っ赤な林檎に惹かれるようだ。サンふじも、なるべく色づきがよいようにと、今度は林檎の木々の葉を摘むことが定着した。また、かつての状態に・・・・?「それでは、いけない」と立ち上がった生産者がいた。色は自然が決めればいい。美味しさへの追求を忘れてはならない。
そうして彼は地元の有志とともに「葉とらず林檎」の栽培に取り組んだ。選果場ではコンピュータとの連動で糖度・果皮・果肉の状態把握を素早くおこない、仲間へ収穫時期などの調整を相談できるしくみを整えた。海外出荷に取り組みながら、生産者たちのGAP(※)取得もすすめている。
信念一本槍ではなく、経済や合理性を考えるところは、あの昭和時代、原点回帰に取り組んだ人々とはちょっとちがって映る。でも、彼・・・・大鰐青果・片山氏の息子とその仲間たちには、「じょっぱりの血」がやはり流れているにちがいない。
■参考/暮らしの手帖70(1981年・早春号)
※GAP:Good Aguricultural Practice(適正農業規範)
※じょっぱり:津軽弁で頑固者の意
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